我が人生の自慢話
いくらか自慢できる記録を残しておこう

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昭和26年 新成中学校を卒業し邇摩農林高校に入学する予定だったが
大阪で大工の弟子にならないか?との誘いが有り都会に憧れて
布団袋と柳行李をチッキで送り親父の中古のトランクひとつを持って
大阪岸和田の母子寮の新築工事現場に就職した。
師匠の同僚3人と兄弟子が4人と同期の兄弟弟子3人の11人で
トタンぶきの小屋で飯場生活が始まった 
当時は応急住宅や2間の二戸建て市営住宅など貧弱な建物が多く
大工の弟子といっても3人交代で食事つくりと買出しなど炊事係り
二年間ぐらいは方付けや雑用で大工道具も持たせて貰えなかった
大工道具もろくな物が無く 大阪天王寺近くの ごかい という
闇市では 焼け跡から拾ってきたような鋸や革靴片方なども売っていた
昭和27年暮れごろ鳥取大火の応急住宅の建設工事に大阪から参加した
当時の応急住宅は鳥取砂丘の中に木造平屋建てで基礎は玉石だった
建前が済んであくる日の朝現場に行ってみると基礎の下の砂が吹き飛んで家が傾いていた

ちょうどこの頃から鉄筋コンクリートの建物が建ち始め大阪駅前に
日本一という地上9階建ての第一生命ビルが誕生したので型枠大工に転向
したが当時は大工といえば木造大工の事で型枠大工はかちわり大工と呼ばれていた
飯場生活を続け大型現場を渡り歩きながらその日暮らしが続き東洋一と
言われた須磨水族館の水槽など特殊工事にも参加した 昭和34年9月
四日市駅の改築工事中に伊勢湾台風に見舞われ一週間も陸の孤島
となった事などいろいろの経験をし
ながら滅多に経験出来ない

彦根城 多聞櫓 復元工事 に参加した

昭和35年3月 開国100年記念事業 として着工され
昭和35年10月 開国記念館の名で開館した



我家の改築
昭和36年山道の行き止まりに築100年ぐらいの
藁葺き屋根の母屋を両親の依頼で建替えた



10年あまり各地を転々としてオリンピックの時には
田子の浦駅の近くでセメント貯蔵タンクを作っていた
41年に嫁さんを貰い子供も3人出来て順風満帆といいたい所だが
扁桃腺肥大という病気で疲れがでると のど の奥に膿が溜まり
一週間置きに41度ぐらいの熱がでて辛い時期が三年ぐらい続いた
我が人生の最悪の時代であった 
扁桃腺切除手術をしたお陰で今は嘘のように元気になった
川鉄千葉工場の工場や東京赤坂で商事会社が入っているビルなど
大林組下請けの大鷹組で2次下請けの榎工務店の職長として働いていた
当時の世相を振り返って見ると安保闘争のデモ隊が現場の前で借り囲いを
圧し潰しそうになり中から補強していたり浅間山荘事件をテレビで実況放送していた

 昭和48年 東京都 上野美術館 の工事が始まった
東京都 上野美術館

昭和48年 オイルショックの始まった年に
大林組施工で上野公園の野球場の土地に
旧美術館の建替え工事が始まり二年余りの工期で完成した


博物館の工事が完了し暫くしてから榎工務店が倒産し光田組の職長として勤務している時
熱海の南明ホテルで型枠工事業者の新年会に参加し花札賭博の参加者として捕まり
川合に一年後に罰金5万円の納付書が郵送されてきた

 警視庁本部庁舎改築工事
昭和52年から55年まで当時の国家的大事業に参加出来
我が人生の自慢話のひとつになった
一日の作業員が1500人を超え型枠大工だけでも
下請け会社が戸倉建設・和栗組・城山建設の三社で施工し
型枠大工も多い時には一日300人を超える事も有った
私は和栗組の職長として光田組から職人を連れて
従事し大きな出会い丁場で貴重な経験をした

光田組の興亡
警視庁の工事が終わって光田組も大きくなり株式会社組織となりました
当時光田組の番頭だった山本氏が体調を崩し吾輩が事務関係や現場周りを
する事となり現場作業をする事無く光田組が消滅するまで約28年間頑張りました
光田組の施工範囲は鴻池組の一次下請けがメインで
大成建設の一次下請け宮本建設・清水建設の一次下請け和栗組の
二次下請けが工事が主で平成8年頃の月間施工金額は2億円を超える月もあった
宮本建設も和栗組も平成14年迄に廃業し光田組も平成13年廃業となった
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